ABOUT US
– 教養を纏うことで、女性は真に美しくなれる –

【Our Philosophy_1】
教養を纏う「Cultural Experience」の提供

Classical Princess Japonは、明治期のクラシックドレス(着物バッスルドレス)の研究調査・制作、そして文化財施設での着用体験・撮影サービスを提供している。

今から遡ること160年。開港後の日本には爆発的に外国の文化が流入し、同時に日本の文化もまた外国へと持ち込まれた。異なる文化同士が融合し、各国で新たな文化芸術が生まれた。
 例として、日本には洋装が持ち込まれ、後に誕生する鹿鳴館では洋装での接遇が行われた。また万国博覧会等の機会を通して、日本の美術作品は西洋諸国に持ち込まれた。そこでは、作品そのもののみならず、作品に描かれた色遣いや、ものの見方までに興味関心が寄せられ、西洋的な価値観と結びついて新たな作風の芸術作品が生み出された。この“日本文化へのまなざしと実践”こそが、ジャポニスムである。
 2015年、Classical Princess Japonは、このジャポニスムの時代に焦点を当て、歴史に根差したCultural Experience(教養体験)の提供を開始した。

それでは、Cultural Experience(教養体験)の「教養」とは何か。
 「教養」という言葉が日本に根付いたのは明治以降であり、福沢諭吉をはじめとする思想家がその重要性について説いた。教養は英語でCulture、また学問としての教養はLiberal Artsと表現することができ、具体的には文法・修辞学・論理学・算術・天文学・幾何学・音楽学の自由七科がそれにあたる。Liberal Artsは日本語で「芸術」と訳された歴史もある。ではなぜ、人間にとって芸術が、そして教養を得ることが重要なことと位置付けられてきたのか。それは、「人を束縛から解放し、自由にする学問」という根源的な意味を持つ行為だからである。

Classical Princess Japonの提供するCultural Experience(教養体験)でもまた、人々を縛り付ける概念から解き放ち、心身ともに新たな価値観に触れる体験を目指している

なお、Classical Princess Japonは、当事業で提供する着物バッスルドレス着用・撮影体験サービスを
1) Academic(=学術的なるもの)
2) Entertainment(=感性としての楽しさ)
3) Hospitality(=もてなしの心、異文化への敬意)
の3要素を持ったCultural Experience(教養体験)として位置付け、人種や国籍、年齢の壁を超えて提供することを目指している。
 またグローバル化が進みながら、なおも異文化間の衝突が絶えることのない現代において、異質な文化が手を取り合い、新たな価値観を作り出す、未来へのヒントがそこにはあると考えている。


【Our Philosophy_2】
意志を纏う「着物バッスルドレス」の再生

日本におけるドレスの歴史は、今からおよそ150年前にまで遡る。1639年から続いた鎖国を解き、外国に向け扉を開いた日本。その玄関口となった港町には、最新の西洋文化が流入し、文明開化の様相を呈した。

1863年、イギリスより来日したミセス・ピアソンが横浜の居留地に洋裁店を開業し、 日本にドレス文化が普及する布石となる。なおその当時、西洋で主流であったのはクリノリン型のドレスであったが、1870年代に入ると、バッスル型*のドレスが台頭することとなる。

明治に入ると日本政府により欧化政策が推し進められ、1883年、東京・日比谷に設けられた鹿鳴館では、関係者は洋装を取り入れる必要に迫られる。

激動の時代、慣れない洋装が揶揄されることもある中、外交官夫人である鍋島榮子が着用したのが、着物地を用いて制作したバッスルドレスであった。これは、西洋のドレスであるバッスルの型に、小袖という着物の生地を用いて制作したものである。

一方で、海を渡った日本文化は、万博などの機会を通して西洋諸国へと広まってゆき、着物地を用いたバッスルドレスが現地でも制作された。ジャポニスム時代の到来である。

― 決して西洋文化に取り込まれるだけではなく、日本が培ってきた歴史を融合させ、新たな美を生み出す ―

そのドレスは、華やかなだけでなく、美しさの中にそうした意志の強さと気品を湛えている。

Classical Princess Japonは、「美しさ」とは「強さ」であると考えている。そして「強さ」とは、自らが確たる信念を持ちながら、異なる価値観を認めることのできる「優しさ」でもある。

当事業の根底には、Truth(真=学問の追求)、Goodness(善=道徳的な行い)、Beauty(美=芸術的な美しさ)といった「真善美」を追い求める哲学が存在している。

<注釈>
「バッスル型*」とは?…19世紀後半、特に1870年代~1890年代にかけヨーロッパで流行したドレスの型。それ以前に流行していたクリノリンドレスが大きく横幅を取ったスタイルであったのに対し、バッスルドレスは左右に張り出した横幅を削ぎ落とし、ボリュームを背後のヒップ部分に持たせたことが一番の特徴。スカートの中に履くバッスルパニエは、古くは鯨の骨や針金等の素材で制作された。着物地を使ったバッスルドレスは、日本のみならずヨーロッパでも制作・着用された。

一魁斎芳年「神奈川横浜之風景」1864(元治1)年/国立国会図書館蔵
左背後の衝立にクリノリンドレスを着用した西洋女性の像が見られるほか、山下町に建ち並ぶ各国商館や、無数の船が横浜港に入港する様子が描かれている。

楊洲周延「女官洋服裁縫之図」1887(明治20)年/個人蔵
バッスルドレスを着用した女官が貴婦人のドレスを仕立てている。この頃になるとドレスの流行がクリノリンスタイルからバッスルスタイルへと移り変わっていることが見て取れる。


【Our Philosophy_3】
深層的「ジャポニスム」の追究

前章までに、19 世紀末にヨーロッパで巻き起こったジャポニスム、そしてその一例として着物バッスルドレスが誕生したことを述べた。

その時代になぜヨーロッパで日本文化に対する熱いまなざしが向けられたのかを考察すると、そこには産業革命との関連性が見えてくる。

産業革命により人口は都市へと集中し、自然はコントロールされる対象としての姿を強めた。また、機械化が進むことより人工的・画一的な製品が数多く生産され、職人の手仕事が消えつつあることに警鐘を鳴らす芸術家も出現した。そうした混沌の中で、日本の美術品や工芸品が万博等の機会を通してヨーロッパに持ち込まれた。先述の通り、着物地を用いてドレスが仕立てられたり、また着物自体を着用した女性の姿が西洋の絵画に描かれたりと、工芸品そのものが目に見える形で生活の中に取り入れられた。

しかしジャポニスムはまた、より深層的な部分で彼らの文化に影響を与えるのであった。

例えば、絵画に描かれる人や風景の構図には、浮世絵の要素が採用された。それまでに構築された西洋絵画の法則を打ち破り、人や自然への見方・描き方を変えることで、躍動感のある作品が生み出された。
 そして工芸品では、それまでヨーロッパでは扱われることのなかった昆虫や小動物がモチーフとして扱われ、そこに表わされた生命の輝きと儚さは、往時に生きた人々を魅了した。また、オペラや文学作品の中にも、理想郷としての日本が登場する。

社会の価値観が劇的に変化した時代において、極東の国、日本に向けられた理想の ―そしてそれはときに未熟なものとしての― まなざしは、産業革命への一種のアンチテーゼとして深層的に入り込み、新たな文化芸術として花開いたのである。


【Our Philosophy_4】
文化の交差点「港都・横浜」の記憶と文化財保護

ヨーロッパが変革の時代を迎える中で、開国後の日本にも近代化の波が押し寄せる。そして、皮肉にもそれは西欧列強を手本として推し進められた。1859年に横浜港が開港し、1872年には横浜~新橋間で鉄道が開通すると、船で横浜港に着いた新たな思想や文化が、首都東京に向かって輸送されるルートが整備された。
 また、横浜港は異文化が流入する港としてだけでなく、日本文化を海外に送り込む場所としての機能を持つことになる。その典型的な例が生糸業である。

開港後の横浜には数多くの貿易商が立ち並んだが、中でも生糸は最もメジャーな輸出品であった。そして生糸はまた、明治以降の日本の近代化を支える上で重要な産品であった。

こうして、横浜は外国の人・モノが流入し、また日本のそれを輸出する「文化の交差点」として成長することで、日本と外国の文化が入り混じった、独特の文化が醸成されたのである。和洋折衷の文化は、例えば、横浜に設けられた建築物の端々からも考察することができる。
 しかしその後、関東大震災や太平洋戦争を経て、姿を消した建物も数多く存在する。また地震が多く、高温多湿な気候の我が国で、文化財施設の維持管理を継続してゆくのは容易いことではない。

そうした中で、異なる文化が融合した時代の面影を残す文化財施設を、Classical Princess Japonの事業では積極活用している。その場所の匂いが、差し込む光が、触れた時の感触が、Cultural Experience(教養体験)をより重層的なものとすると考えているからだ。そして、いまを生きる人の心に、先人の記憶を留めることができると信じているからである。

ABOUT US
- 教養を纏うことで、女性は真に美しくなれる -

【Our Philosophy_1】 教養を纏う「Cultural Experience」の提供

Classical Princess Japonは、明治期のクラシックドレス(着物バッスルドレス)の研究調査・制作、そして文化財施設での着用体験・撮影サービスを提供している。

今から遡ること160年。開港後の日本には爆発的に外国の文化が流入し、同時に日本の文化もまた外国へと持ち込まれた。異なる文化同士が融合し、各国で新たな文化芸術が生まれた。
 例として、日本には洋装が持ち込まれ、後に誕生する鹿鳴館では洋装での接遇が行われた。また万国博覧会等の機会を通して、日本の美術作品は西洋諸国に持ち込まれた。そこでは、作品そのもののみならず、作品に描かれた色遣いや、ものの見方までに興味関心が寄せられ、西洋的な価値観と結びついて新たな作風の芸術作品が生み出された。この“日本文化へのまなざしと実践”こそが、ジャポニスムである。
 2015年、Classical Princess Japonは、このジャポニスムの時代に焦点を当て、歴史に根差したCultural Experience(教養体験)の提供を開始した。

それでは、Cultural Experience(教養体験)の「教養」とは何か。
 「教養」という言葉が日本に根付いたのは明治以降であり、福沢諭吉をはじめとする思想家がその重要性について説いた。教養は英語でCulture、また学問としての教養はLiberal Artsと表現することができ、具体的には文法・修辞学・論理学・算術・天文学・幾何学・音楽学の自由七科がそれにあたる。Liberal Artsは日本語で「芸術」と訳された歴史もある。ではなぜ、人間にとって芸術が、そして教養を得ることが重要なことと位置付けられてきたのか。それは、「人を束縛から解放し、自由にする学問」という根源的な意味を持つ行為だからである。
 Classical Princess Japonの提供するCultural Experience(教養体験)でもまた、人々を縛り付ける概念から解き放ち、心身ともに新たな価値観に触れる体験を目指している。

なお、Classical Princess Japon は、当事業で提供する着物バッスルドレス着用・撮影体験サービスを
1) Academic(=学術的なるもの)
2) Entertainment(=感性としての楽しさ)
3) Hospitality(=もてなしの心、異文化への敬意)
の3要素を持ったCultural Experience(教養体験)として位置付け、人種や国籍、年齢の壁を超えて提供することを目指している。
 またグローバル化が進みながら、なおも異文化間の衝突が絶えることのない現代において、異質な文化が手を取り合い、新たな価値観を作り出す、未来へのヒントがそこにはあると考えている。


【Our Philosophy_2】 意志を纏う「着物バッスルドレス」の再生

日本におけるドレスの歴史は、今からおよそ150年前にまで遡る。1639年から続いた鎖国を解き、外国に向け扉を開いた日本。その玄関口となった港町には、最新の西洋文化が流入し、文明開化の様相を呈した。

1863年、イギリスより来日したミセス・ピアソンが横浜の居留地に洋裁店を開業し、日本にドレス文化が普及する布石となる。なおその当時、西洋で主流であったのはクリノリン型のドレスであったが、1870年代に入ると、バッスル型*のドレスが台頭することとなる。
 明治に入ると日本政府により欧化政策が推し進められ、1883年、東京・日比谷に設けられた鹿鳴館では、関係者は洋装を取り入れる必要に迫られる。

激動の時代、慣れない洋装が揶揄されることもある中、外交官夫人である鍋島榮子が着用したのが、着物地を用いて制作したバッスルドレスであった。これは、西洋のドレスであるバッスルの型に、小袖という着物の生地を用いて制作したものである。

一方で、海を渡った日本文化は、万博などの機会を通して西洋諸国へと広まってゆき、着物地を用いたバッスルドレスが現地でも制作された。ジャポニスム時代の到来である。

― 決して西洋文化に取り込まれるだけではなく、日本が培ってきた歴史を融合させ、新たな美を生み出す ―

そのドレスは、華やかなだけでなく、美しさの中にそうした意志の強さと気品を湛えている。

Classical Princess Japonは、「美しさ」とは「強さ」であると考えている。そして「強さ」とは、自らが確たる信念を持ちながら、異なる価値観を認めることのできる「優しさ」でもある。
 当事業の根底には、Truth(真=学問の追求)、Goodness(善=道徳的な行い)、Beauty(美=芸術的な美しさ)といった「真善美」を追い求める哲学が存在している。
<注釈>
「バッスル型*」とは?…19 世紀後半、特に1870年代~1890年代にかけヨーロッパで流行したドレスの型。それ以前に流行していたクリノリンドレスが大きく横幅を取ったスタイルであったのに対し、バッスルドレスは左右に張り出した横幅を削ぎ落とし、ボリュームを背後のヒップ部分に持たせたことが一番の特徴。スカートの中に履くバッスルパニエは、古くは鯨の骨や針金等の素材で制作された。着物地を使ったバッスルドレスは、日本のみならずヨーロッパでも制作・着用された。

一魁斎芳年「神奈川横浜之風景」1864(元治1)年/国立国会図書館蔵
左背後の衝立にクリノリンドレスを着用した西洋女性の像が見られるほか、山下町に建ち並ぶ各国商館や、無数の船が横浜港に入港する様子が描かれている。

楊洲周延「女官洋服裁縫之図」1887(明治20)年/個人蔵
バッスルドレスを着用した女官が貴婦人のドレスを仕立てている。この頃になるとドレスの流行がクリノリンスタイルからバッスルスタイルへと移り変わっていることが見て取れる。


【Our Philosophy_3】 深層的「ジャポニスム」の追究

前章までに、19世紀末にヨーロッパで巻き起こったジャポニスム、そしてその一例として着物バッスルドレスが誕生したことを述べた。

その時代になぜヨーロッパで日本文化に対する熱いまなざしが向けられたのかを考察すると、そこには産業革命との関連性が見えてくる。

産業革命により人口は都市へと集中し、自然はコントロールされる対象としての姿を強めた。また、機械化が進むことより人工的・画一的な製品が数多く生産され、職人の手仕事が消えつつあることに警鐘を鳴らす芸術家も出現した。そうした混沌の中で、日本の美術品や工芸品が万博等の機会を通してヨーロッパに持ち込まれた。先述の通り、着物地を用いてドレスが仕立てられたり、また着物自体を着用した女性の姿が西洋の絵画に描かれたりと、工芸品そのものが目に見える形で生活の中に取り入れられた。

しかしジャポニスムはまた、より深層的な部分で彼らの文化に影響を与えるのであった。

例えば、絵画に描かれる人や風景の構図には、浮世絵の要素が採用された。それまでに構築された西洋絵画の法則を打ち破り、人や自然への見方・描き方を変えることで、躍動感のある作品が生み出された。
 そして工芸品では、それまでヨーロッパでは扱われることのなかった昆虫や小動物がモチーフとして扱われ、そこに表わされた生命の輝きと儚さは、往時に生きた人々を魅了した。また、オペラや文学作品の中にも、理想郷としての日本が登場する。

社会の価値観が劇的に変化した時代において、極東の国、日本に向けられた理想の ―そしてそれはときに未熟なものとしての― まなざしは、産業革命への一種のアンチテーゼとして深層的に入り込み、新たな文化芸術として花開いたのである。


【Our Philosophy_4】 文化の交差点「港都・横浜」の記憶と文化財保護

ヨーロッパが変革の時代を迎える中で、開国後の日本にも近代化の波が押し寄せる。そして、皮肉にもそれは西欧列強を手本として推し進められた。1859年に横浜港が開港し、1872年には横浜~新橋間で鉄道が開通すると、船で横浜港に着いた新たな思想や文化が、首都東京に向かって輸送されるルートが整備された。
 また、横浜港は異文化が流入する港としてだけでなく、日本文化を海外に送り込む場所としての機能を持つことになる。その典型的な例が生糸業である。

開港後の横浜には数多くの貿易商が立ち並んだが、中でも生糸は最もメジャーな輸出品であった。そして生糸はまた、明治以降の日本の近代化を支える上で重要な産品であった。

こうして、横浜は外国の人・モノが流入し、また日本のそれを輸出する「文化の交差点」として成長することで、日本と外国の文化が入り混じった、独特の文化が醸成されたのである。和洋折衷の文化は、例えば、横浜に設けられた建築物の端々からも考察することができる。しかしその後、関東大震災や太平洋戦争を経て、姿を消した建物も数多く存在する。また地震が多く、高温多湿な気候の我が国で、文化財施設の維持管理を継続してゆくのは容易いことではない。

そうした中で、異なる文化が融合した時代の面影を残す文化財施設を、Classical Princess Japonの事業では積極活用している。その場所の匂いが、差し込む光が、触れた時の感触が、Cultural Experience(教養体験)をより重層的なものとすると考えているからだ。そして、いまを生きる人の心に、先人の記憶を留めることができると信じているからである。