CPJ ACADEMY

宝飾品市場にダイヤモンドが現れる前、レースは宝石に勝るとも劣らない高級品であった。

18 世紀、貴婦人が身に付けたコルセット。鯨の骨とレースで構成されるこの下着は大変値が張るものであった。使用人がコルセットを洗濯している間、スペアのコルセットを持たない貴婦人は裸で待っていたというエピソードもある。繊細なレースを施した扇子は、その動かし方で気持ちを表す重要な小道具でもあった。一方、貴族の中でも高価なレースを存分に買えない者たちは、当時、肖像画家がレースのデザインをしていたことに目を付け、肖像画の中で自らがレースファッションに身を包んでいる姿を描かせた。

レースは高貴な暮らしを象徴する品であり、人々の憧れであった。
この職人技術の下支えとなっていたのがギルド(徒弟制度)である。しかし産業革命期、機械化の波が押し寄せ、レースの手しごとは次第に廃れ、その中心地はヨーロッパから中国へと移ってゆく。

そして産業革命後、日本文化もまたヨーロッパのレースに影響をもたらす。1889 年のパリ万博以降、日本的な意匠がレースのデザインに取り入れられるようになる。浮世絵等、日本の美術作品がグラフィカルに反映され、レースからもジャポニスムの断片を見て取ることができる。

その頃、開港後の横浜で、近澤レース店は産声を上げた。開業当初は居留地の外国人や日本人外交官が主な顧客であり、テーブルクロスやタオル、ハンカチ等身の回りの布製品を完全オーダーメイドで受注していた。当時の外交官令嬢は、嫁入り道具で麻製品一式を用意するのが定番だったという。

また横浜港からの輸出産品で忘れてならないのが絹製品の存在だ。

当時の物流ルートとしては、群馬で生産された絹地が横浜に運ばれ、そこで最終加工の捺染(なっせん)を施した後に外国に輸出された。大岡川や帷子川沿いには、絹地に染めを施す捺染工場が数多く設けられ、一大地場産業となった。

Classical Princess Japon では、ドレス着用体験の際に、近澤レース店の扇子やグローブ等の小物を用いて撮影を行っている。社会の変革とともに、レース製品の生産過程や社会的価値もまた変化を遂げたが、その編み目ひとつひとつに、職人の想い、そして、その歴史の中に生きた人々の夢が込められていることに変わりはない。


インタビュイー
株式会社近澤レース店 代表取締役 近澤弘明氏

インタビュアー
Team Classical Princess Japon